私の幼かったころ その7


 2001年4月2日、飛騨高山から大勢の友だちが上京して、小学校の同窓会があった。数え年の古希を記念して首都圏の我々を含めて43人集まった。56年ぶりに逢うちゑ子さんが、今度は参加できなかったみつ子さんから「東校の子供」第二巻(昭和16年2月)のコピーを預かってきて下さった。尋二(尋常小学校二年)能登眞作の綴り方が載っているではないか! 以下、旧仮名遣いなど原文のままです。

        もちつき                   尋二  能 登 眞 作

 きのふぼくの家では、もちをつくようになっていたので、朝五時にお母さんがおきなさいました。
 せいろに米を入れなさいました。ごはんをたべて大ぶんたった時、兄さんがうすを、こやから持って来て、「このうすは、つくうちにぼこぼこおきてくるから、もちにごみがつくぜ…。」といったら、お父さんが、おきそうな所にあなをほって、そこに大きな木をこめなさいました。
 とけいを見たら七時はんだったので、お父さんにぼくは、「もうしごとにいく時間や。」といったらお父さんは兄さんに、「一うすか二うすのこいとけ。だるくなけりゃないいけど。」といってしごとばをさして、いってしまひなさいました。
 家ではおもちをのばすぼうやら、もちにこをつける時のいたやら、こをおはちのやうなものに入れるなど、用意をしなさいました。きねは塚中からかりてみえました。
 やがて、せいろを持って来て、うすの中へ入れなさいました。そしたらいきがぽうぽうとたち上り、空をむけて上がっていってしまいました。すると兄さんが、うわぎをぬいて勇ましいかっこうをして来たので、みんなが、「一人まへのおとうさん。」といったら兄さんはおこりました。
 兄さんは、べったらこべったらことつきはじめました。そのうちに一うすつきました。それは豆もちでした。つぎのも豆もちです。
 今度もいきを立てながら、あつさうにせいろの米を持って来て、うすの中に入れなさいました。
 兄さんは元気をつけてつきました。おかあさんがまぜなさると、兄さんが、「もっと早くなさいよ。手をつぶしてもしらんよ」といいますと、おかあさんは、「うん、しっとるさ」といいながらまたまぜなさいました。
 とけいを見たら十一時五分すぎだったので、ぼくはお茶をわかしました。
 ごはんをいただいてから、またつきました。
 今度はあわもちです。せいろをおいてある所へいって見ると、もう二うすのこってゐます。すると、がらがらと戸をあけておばあさんが、入って来ました。おばあさんは赤ちゃんをつれていらっしゃったのですが、泣いたのでつれていらっしゃったのです。ぼくはついてしまいなさるまで赤ちゃんをおんでゐました。

 (この年4月、尋常小学校は「国民学校」と名称を変え、12月8日太平洋戦争に突入した。)


  


 昔の小学校はカタカナから習得した。尋一(尋常小学校一年=今の小1)の自由詩が校報に載っていた。となりの詩を作った谷口勇君は、今でも同窓会で年1回くらいは顔を合わせるが、もしかしたら120人の同窓生の出世頭かもしれない。中大法科を卒業して農林省に勤めたころ、世田谷成城のアパートに訪ねたことがある。(もう50年も前のことだ)。その後、彼は役人の世界に失望し、退職して、観葉植物のリース会社を興したと聞いていた。
 谷口君は業界で頭角を現し、太田市場に花き部を創設することに貢献、1990年、フラワーオークションジャパンを創業して社長となり、年商150億円を超える企業に育てあげた。その彼は昨年引退したが、業界団体の役員は続けている。いつ会っても謙虚で、誠実、学ぶことの多い大事な友人の一人だ。

                  
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