私の幼かったころ その8

 戦後の食糧難のとき、サツマイモは主食のような大事な役割を果たした。飛騨高山は雪国で、サツマイモは獲れない。ヤミ屋が温暖な美濃地方からサツマイモを運んできた。
 ボクと親友の諏訪君がヤミ屋になったには訳がある。
 ボクたちは中学2年になっていた。あるとき親たちが学校に集められて、創立60周年記念の寄付を言いつかった。ボクの家は貧乏で、寄付どころではない。諏訪君の家も貧しかった。手軽に稼ぐにはヤミ屋しかなかった。
 高山線で南下して、3時間、下麻生という駅で降りた。汽車賃は片道32円だった。冬なのに雪がなく、土手や道端に枯れ草がある風景が異様に映った。農家を回って、サツマイモを買う。乞食扱いされるときもある。うまくいけば1貫目(3.75kg)22円か23円で譲ってもらえた。諏訪君は10貫目は背負った。ボクもがんばって9貫目は運んだ。雪国の子どもは背負うのは慣れているとはいえ、半ば栄養失調の身にはきつかった。駅までたどり着いてベンチで一休みすると、汽車が来て立ち上がるときが辛かった。
 高山に帰り着くと、ヤミ屋を取り締まる経済警察の目をかすめて、朝鮮人のイモ飴屋に走った。1貫目55円くらいで引き取ってくれた。1回行けば200円は稼げた。
 ボクと諏訪君は冬休みの間、毎日ヤミ屋をやった。
 ヤミ列車は超満員だ。窓に飛びついて頭から転がり落ちるようにして乗る。汽車が動き出すと、若い二人連れのヤミ屋が人前をはばからずにイチャついている。中学2年生のボクと諏訪君は、それをまじまじと見つめた。
 中年のヤミ屋が、「今からこんなことを見て、ろくな人間にはならんなあ」「どんな親だか、一度顔を見たいさ」と嘆いているのが聞こえた。ボクたちにわざと聞こえるように言っているのが分かった。でも、ボクたちは平気だ。ボクたちは、学校の寄付のためにヤミ屋をやっているのだ。それは学校へ通い、学び続けるためなのだ。
 しかし、商売が面白くなりかけていたのも事実である。ある日、諏訪君の提案で、サツマイモの買い付けを止めた。代わりに小麦を1斗(15kg)ずつ買った。イモより軽くて楽だ。 翌日、それを干しうどんの加工所へ持っていって、加工を頼んだ。当時、食糧は厳しい統制のもとにあって、配給品以外の取引はヤミ取引で、犯罪であった。2斗ものうどんを加工するのは犯罪に手を貸すことになりかねない。もっともらしい口実が必要だった。こういうことは口達者なボクのしごとだ。
 「すいません。大八賀村の山田ですけど、おっかさんに頼まれて来たんやけど、今度法事をするもんやで、うどんを作ってくれんさいと」と、いかにも子どもっぽく言った。
 それから二人は、加工した干しうどんを持って、町の「アリス」というレストランヘ行った。 こんどは諏訪君が「うどんいらんかいな」と大胆に売り込んだ。マスターは疑わしそうにボクたちを見たが、食料がなくて開店休業状態のレストランはすぐに金を払ってくれた。イモのかつぎ屋の3倍はもうかった。
 味をしめて、翌日また小麦を仕入れた。高山駅で改札を出ようとしたとき、警官につかまった。小麦は押収され、翌日親が警察に呼ばれた。「オリも若いときは悪いこともしたが親を警察に行かせたことはねえ」と、親父は言い残して出頭した。始末書を取られて、小麦は「子どものことだから」と返してくれたという。
 ボクはそれっきりヤミ屋を止めた。諏訪君はかまわず続けた。駅に着く直前に荷物を線路脇に落とし、駅から走って取りに行く。その後は一度も警察には捕まらなかった。そして商売熱心を買われてある事業家に拾われ、自称年商ウン億円という海産物加工の社長になった。

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