私の幼かったころ その10


 ボクの生家は川沿いの棟割長屋の一軒だった。戦後、岩波写真文庫で「飛騨高山」というのが出版されたが、そこに貧しい町家として掲載されている。今は我が家も含めて次々に改築され、昔の面影はない。(誰かその写真文庫を持っていたら譲ってほしい)。 長屋の裏は長屋の人だけの通路になっていて、米や醤油を借りたり貸したりの行き来に使われていた。その通路を隔てた石垣の上に、ボクの家の物置小屋があった。
 小屋は9尺2間(3坪)の小さなもので、奥の3畳ほどは納戸、手前の3畳が道具小屋になっていた。普段は使わない親父の一番大事な道具がしまってあった。子どもが手にすることは一応禁止されていたと思う。
 でも、この小屋は小学生のボクの居場所であった。最初に失敗したのはマサカリだ。
 忘れもしない小二のときのことだ。小型のそのマサカリは木を割るためのものではなく、細工仕事用で、ピカピカに研がれていた。小屋の外へ持ち出して、薪割り台の上で木を割ろうとした。マサカリを振り下ろしたとき、木がグラッと動いて、マサカリは木を持つ左手の人差し指に落ちていた。
 母屋へもどると、運よくお袋は畑にも行かず、炉辺で縫い物をしていた。
 「おっ母さん、手切ってまった」
 お袋はその辺のボロを引き裂いてボクの指に巻いたが、細いボロの両方がパックリ口が開くのを見て仰天した。ボロをぐるぐる巻きにすると、外へ飛び出したが、日中のことで人影もない。通りかかった近所の人に、「おっさま、おっさま」と声をかける。事情を知ったおじさんは、急いで自転車をとりに行き、ボクを乗せて日赤病院へ走ってくれた。
 傷は骨まで達していて、7針縫った。今でも傷跡ははっきりと残っているが、日赤へ走ってくれた「おっさま」が誰だったのかは記憶にない。その時代は、地域社会の助け合いが普通にあったのだろう。

 怪我の後も、ボクは性懲りもなく小屋にこもった。学校から下がると、小屋へ直行した。
 自転車のペダルを踏むように、一度力を加えると、それがベルトを伝わって永久に回り続けるような装置が作りたかった。
 午後の長い時間を考え続けて、夕暮れになることもある。お袋が呼びに来て、「ちょっとは手伝いねぇ!」と、思考を中断させられることもある。
 小屋の外に、鉛筆工場からもらってきた炊きつけが束になって積み上げてある。1センチ角で長さ20センチほどの廃材を使って、最初のペダルの部分を作ろうとしてみ


今はない川べりの貧乏長屋。「その」を開園した昭和40年撮影。真ん中うしろがボクと長女。

たこともある。こいつは一番細い小さな釘を使っても割れてしまうことが多く、うまくいかなかった。
 夕暮れ、ボクは苦い挫折感を味わいながら、石段を下りて母屋に帰る。「エネルギー不変の法則」を知ったのは、ずっとずっと後のことだった。徒労の毎日とも言えたが、ボクにとっては至福の時間であった。
 今は人ごみの中にいるような生活。人の話を聞き、人に話し、人と交わるのが仕事で、それを楽しそうにやっているように見えるかも知れないが、ボクがほんとうに望んでいるのは大工小屋の孤独な時間なのだ。

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