私の幼かったころ その4


 りょうぶの花(夏梅陸夫著「花の名前の手帖」より)

 昭和20年の終戦をはさんだ数年間は、ひどい食糧難だった。子だくさんな貧しい我が家はことのほかひどかった。
 すいとんが食べられたうちはまだよかった。野草を入れた塩汁に、ゆるく溶いた小麦粉を流し込んで、どろどろにした。片栗粉でとろみをつける中華料理のように! 空腹の子どもたちには、何であれ量が必要だった。それはほとんど『水腹』に近かったが。
 野草といっても、ふきやワラビ、アズキナ、ヨメナのような知られた野草は、街中の人にとり尽くされてしまう。終戦直前の初夏のころ、りょうぶの葉をもいできて食べた。

 平凡社の世界大百科事典によると、りょうぶはリョウブ科の落葉小高木、北海道から九州まで山地に普通にある木で、「春の若葉はゆでてあくだしして食用とし、いわゆる救荒植物の一つ」とある。

 ある日、母が3升炊きの大釜に作ったトロトロ塩汁を、お勝手から囲炉裏端まで運んでくる途中で、転んだ。敷居につまづいたのか、過労で目が回ったのか。トロトロ塩汁は無残にも畳の上に一面に広がった。
 そのときボクは囲炉裏のある座敷に寝転がっていた。半ば栄養失調だった。時間があればごろごろしていた。寝そべったまま、母が転ぶのを見た。そして、「なにするんや。オリたちの食うもんを!」と舌うちした。

 母は畳のトロトロを両手に掬って大釜に戻そうとしていた。眉間に深い深い縦じわを寄せて……母の手はやけどをしなかったのか、その晩、ボクたちは何を食べたのか、そこから先の記憶は途切れている。
 だが、ボクは「大丈夫? おっ母さん」と声をかけたりはしなかった。ただ「なにすんや。オリたちの食うもんを!」と思って、冷たい一瞥を投げつけただけだった。いま慙愧の思いで、母の眉間に縦じわを寄せた暗い表情を思い浮かべる。思い出すたびに涙があふれてくる。

 極限の空腹は人間を変える。戦争と貧乏が少年の心を貶めた。

 教育改革国民会議が、すべての子どもに奉仕活動を義務づける提言をまとめた。内閣官房のホームページで国民会議の議事録を読むと、奉仕活動の義務化を最初に提案したのは作家の曽野綾子氏である。彼女は、日本の子どもたちの悲劇は貧乏を知らないことだとして、満18歳の春、最低1ヵ月、できれば2ヶ月、「受け入れの質素な建物、大部屋、トイレ、簡単な暖房、シャワールーム程度の共同生活で、国有林の下草刈りなどの労働をさせる」「動員の指導と訓練は、海外青年協力隊員、警察、自衛隊のOBなどに当たらせる」ことを提言した。
 中流家庭に生まれ、なに不自由なくミッションに通った曽野綾子氏に「貧乏の尊さ」などを説いてほしくない。いや、ボクは子どもに貧乏など絶対にさせたくない。

 子どもたちが今のままでいいとは思えないし、日本の教育は大きな課題を抱えていることにも異論はない。しかし、昔のように貧乏を体験させ、軍隊のような服従の生活で根性をたたきなおせというのは、あまりに愚策に過ぎる。成功はしないだろう。
 物質的に豊かなだけでなく、豊かさの中で、どのようにして人間らしい感情や知性、生き方を育てていくのかを考えなければならない。それは戦後を生きてきたボクたち自身の反省からうまれるのではないか。

トップページ
前の話題
次の話題