私の幼かったころ その2



    法華寺の門前

 法華寺の裏山は大きな墓苑になっていた。山を段々に切り開いて、どこまでも続いている。私のうちの墓も山のてっぺん近くにあった。「能登屋」という薬屋の墓は、赤松の大木が植えられた立派なものだが、その隣のちっぽけな墓が私のうちの墓だ。
 うちの先祖は能登屋に丁稚奉公をしていたが、明治になると町人も苗字をつけることになったので、薬屋の主人から屋号をもらって能登を名乗ることになったそうな。死んでも主人に仕えよというので、墓も脇に作らせたのだろうか。

 さて、ボクの幼かったころ、お盆の墓参りは野の花を手向ける慣わしがあった。門前の店屋にも花束は並べてあったが、子どもの売る野の花のほうが大事にされた。そこでボクたち貧乏人の子どもの出番となる。
花はクヌギ峠を越えて、大八賀村まで採りに行った。ボンバナを中心に秋の野の花なら何でもよかったが、

キキョウは特別珍重された。採ってきた花を、ススキをバックに藁で束にする。ススキは縞ススキが最高だ。子どもの作った花束は2銭が相場だったが、縞ススキを使い、キキョウが入れば3銭でも売れる。
 ただ、縞ススキは自生したものはない。庭に栽培されたものしかないのである。庭といっても裏山のようなところに一かたまり植わっているので、今思えば「分けて下さい」と頼めば譲ってくれたのではなかろうか。だが、ボクたちの知恵では盗むしかなかった。
 ある晩、鎌を持って一人で縞ススキを盗みに行った。

 町外れの目星をつけた家の母屋はまだ明かりがついていた。脇の坂になった細い農道を登った。裏手に出ると、もう母屋の明かりは届かず、ほとんど暗闇に近かった。目を凝らして、縞ススキを刈った。ボクのうちは大工だから、刃物はどれもよく切れる。一抱え刈るのにさして時間はかからなかった。左手に縞ススキを抱え、右手に鎌を持って、盗っ人のボクは走って逃げた。何につまづいたのか、坂道で転んだ。
 鎌の刃が、右手の親指を切り裂いた。その瞬間は痛くはなかったが、暗闇の中で生ぬるい血が流れるのが分かった。「しまった!」。ボクは縞ススキを投げ捨て、手ぬぐいで親指をぐるぐる巻きにして、走って家に帰った。

 救急車などというものはない時代である。親父が自転車に乗せて医者へ走ってくれた。どこの医者だったかは今はもう覚えていない。ただ、「1銭や2銭稼いだって、医者代をかけたら何にもんらんすけ!」と、親父は怒鳴ったが、言葉とは裏腹にえらく心配している気持ちが伝わってきたことは忘れられない。
 一人で縞ススキ盗みに行ったのは抜け駆けで稼ごうという、邪悪な気持ちがあったからで、天罰はてきめんだった。ボクの右手親指には今も深い傷跡が残っている。もっともボクはいつも刃物を使って遊んでいたから、右手と言わず左手と言わず傷跡だらけで、別に珍しくもない。小学校3年の秋のことだった。


小学校3年のとき(中央)

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