私の幼かったころ その6


 ボクの家の下隣に穏やかな老夫婦が住んでいた。子どもたちはみんな立派に独立してまあまあの暮らしぶりのようだったが、ただ末娘のせっちゃんは出戻りの「満州花嫁」で、まわりに不憫がられながら親と一緒に暮らしていた。
 貧乏長屋には珍しい、「掃き溜めに鶴」のような美しい人で、女学校へ通っているときから近所のガキどもの憧れの的であった。

 それは戦争が終わった1945年(昭和20年)の秋のことだった。
 「軍人と官員」にも書いたが、ボクは軍人になる夢を奪われて途方にくれ、小学校時代の恩師を訪ねた。恩師は「軍人はもうダシカン(だめだ)で、これからは官員やなぁ」と、こともなげに言った。言われてボクは大ショックを受ける。その先生は軍人になる道も、官吏になる道も、親の跡をついで大工になる道も承知の上で、幼い純真な子どもに、「軍人になるしか道はない」と教えたのだ。
 欺かれたことに気づいて、ボクは泣いた。泣いても心は晴れなかった。


 中国農民から土地を奪った満蒙開拓団(写真集「子ども
 たちの昭和史」から)

 隣のせっちゃんにとって、敗戦は別の意味を持っていた。
 せっちゃんは終戦の2年前、女学校の卒業を待つようにして17歳で中国の東北部、満州の開拓団へお嫁に行った。凍りつく北の大地と中国農民の憎悪のまなざしが待っていた。
 せっちゃんは運よく終戦の前年、夫の徴兵を機に、内地へ帰ることができた。戦後届いた戦死の公報一枚で縁薄い夫との関係は終わった。 

 長屋の二階から仕立物のミシンを踏むせっちゃんの気配が伝わってくる。そんなある日、せっちゃんが1冊の本を渡して言った。
 「しんちゃん、わたしは親の言いつけ通り満蒙開拓団へお嫁に行って、自分の青春を無駄にしたんよ。これからは新しい考えをとり入れにゃダシカン」
  本は「社会主義のはなし」という題名で、粗末なセンカ紙に刷られていた。世の中に富める人と貧しい人がいるのは、社会の仕組みが悪いからだ、とある。戦争は逃れられない運命ではなく、人民が立ち上がって戦えば、貧富の差のない、平和な世界は築ける、ともあった。ボクはむさぼるように読んだ。臓腑にしみ込む思いだった。

 せっちゃんに連れられて、社会主義の勉強会に参加した。飛騨地方の百姓一揆を書いた小説「山の民」の江馬修が講師で、やはり粗末な紙に印刷された「レーニン主義の基礎」がテキストだった。国鉄や工場の若い労働者が参加していた。終戦直後の解放感、明るい、熱い議論にボクは惹きつけられていった。

 翌年(1946年)の5月、青年共産同盟飛騨地区の結成に参加した。中学2年生だった。コミュニストとしての長い人生の第1歩であった。

   中学2年生


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