私の幼かったころ その3


 私は飛騨高山の大工のせがれに生まれた。
 五男四女の四男、もう男の子はいらないと思っているところへ生まれてきた。一人くらいは大工にしてもいいかというので、「真作」と名づけられた。親父は大工というのは割りに合わない仕事と思っていて、子どもはサラリーマンにしようと考えていたらしい。
 親の気持ちが通じてか、私は手先器用な子に育った。祖父は「カンナの蔵左衛門」といえば飛騨一円で名の知れた棟梁だったし、祖母は機織の名手で、明治時代に開かれたシカゴ博覧会の織物の部で賞状をもらったような人だったから、ま、隔世遺伝といったところか。(^^)

 小学生になると、私はカンナ屑の匂いが好きで、よく親父の現場へ行った。今と違って、新築現場にはいつも焚き火があった。弁当もお茶も暖かい焚き火をかこむ。そのそばで温まったお湯を使って、親父は刃物を研ぐ。

 親父は昔風の職人で短気だったが、芯から仕事好きな人で、焚き火の傍らで砥石を使うときは穏やかで、幸せそうでさえあった。

 ある日、親父が言った。「一分三間って分かるけ?」。
 もちろん小学生の私には分からなかった。「オリも、じさまから教わったんや」。
 …手元で一分(3ミリ)狂えば、その先の誤差は三間(5メートル余)にも広がる。たとえどんなに忙しくても、手元の曲尺をいい加減にしてはならない。…それはいい仕事をしたい職人の心意気というものだ。私は焚き火に木っ端をくべながら、この格言を反芻した。

 何年かして、戦争が激しくなり、親父は軍需工場の建物を請け負った。こんどは親父に頼まれて、学校が終わると、走って街はずれの現場へ手伝いに行った。小学校6年生になっていた。三寸角の柱に抜き穴を掘るのが私の仕事だ。今は機械であっという間に開けられるが、そのころは電動工具というものはなく、すべて手作業である。手回しドリルで穴をあけ、ノミで仕上げる。ひとつ抜き穴をあけると、駄賃に3銭くれた。親父は行く末大工にしようと思って、励ましの駄賃だったのだろう。
 しかし、特攻機が抱えて飛ぶ木製のガソリンタンクを作るその工場は、腕のいい大工を必要としていたわけではなかった。抜き穴は抜けてさえいればよかった。私が丁寧に、親父から見ればグズグズやっていると、「もうええ、もうええ」と、声が飛んできた。「一分三間」は平時の格言だったのだ。

 長じて、これは親父の遺言だと思うようになった。「一分三間」は職人の心得にとどまらず、誠実に生きるものの姿勢でなければなるまい。だが、根っこのところで怠惰な私は、まあいいか、あとで、の連続で、手元の曲尺をきちんと生きることは難しい。

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