私の幼かったころ その8


 もうずっと前のことだが、上福岡市内の文化団体の会報に、ボクの母のことを書いた一文が出た。書いてくれたのは草野孝子さん。以下、その全文である。

          草 野 孝 子

 友だちの家に、この春「高山のおばあちゃん」が二ヵ月半ほど滞在された。小柄だが、しゃっきりと、しわの少ない童顔の、七十四歳のおばあちゃん。「新幹線は速いねえ。朝の八時に家を出たに、 

もう着いたで…」と、旅の疲れも見せずにいそいそと台所に立つ。六歳と二歳の子どもをかかえて、共働きで忙しい末娘のところにしばらく手伝いに来られたのである。
 私たちは、おばあちゃんの居られる間じゅう、代わるがわる立ち寄った。

 おいもの煮ころがし、煮豆など、「おふくろの味」でお茶をご馳走になり、高山弁のお話を聞くのがめあてである。新聞はすみずみまで読むし、テレビ真剣に見る。その話題の豊富なこと。テレビドラマ、旅行の話、子育てのこと、戦争中のこと、歌謡曲や野球にいたるまで、話は尽きない。とりわけ、ロッキード事件の国会でのやりとりなどを話すときはその目がキラキラと光る。

 また、おばあちゃんは私たちのよき相談相手だ。酒好きのご主人に悩む訴えに、「男の人にゃ、酒飲まずにおられん苦しいこともあるもんよ。そんでも奥さんが分かってやらにゃ、ほかのだあれも分かってはくれんろ…」

 その彼女自身、辛抱強さだけを望まれて、しゅうとさんが二組もいる家に十代で嫁いだとか。その複雑な家族関係の中で、身を粉にして働きながら、どれだけ人知れず涙を流したことか。けれども職人の父ちゃんは、そんな彼女をかばう代わりに、黙って酒を飲むばかりだったという。
 「けどな、今になってほんに父ちゃんが恋しいね。よう働く人じゃったけど、九人も子どもを育てて、楽もせんと死んでしまった父ちゃんがいとしゅうてならん…」
 その父ちゃんに、生涯でたった一度買ってもらった帯を、夏でも冬でも大事に締めているという。

 このおばあちゃん、ときにはなかなかこわい。「ここの大将は、根はいい人だけど、ほんにダラシなくてダシカンな。ホレ、脱いだ靴下はそんなとこに丸めておかんで、かごに入れんと…」「こら、さちこ! ちゃんと背中を伸ばして。きれいに食べてしまわなダシカンぞ」。この一喝で、娘婿は頭をかきながら靴下をつまみ上げ、孫は慌てて座り直す。

 六月の初め、私たちのたっての願いも振り切って、おばあちゃんは高山へ帰っていかれた。「ずうっといとってやりたいけれど、向こうでもわしがおらんと困るでな」
 おばあちゃんがおられた間に、押入れから台所、戸棚、物置にいたるまで、きれいに片づいて、重ねたボール箱には”コップ””子ども冬服”などとおばあちゃんの筆跡が記されている。庭の木々が格好よく植えかえられ、新しい草花も増えた。歩かんと具合が悪くなってしまうと、駅の向こうまでトコトコ歩いていって、一鉢ずつ下げてきた草花である。

 「来年の高山祭りにはきっと来てくれんさい」と、電車の窓から手を振っておられたおばあちゃんの顔が、今も私のまぶたから離れない。おばあちゃんのいなくなった後、ぽっかり穴のあいた胸の底で、私はひとり考える。

 「あのやさしさ、明るさ、強さ、賢さ、みずみずしさ。これらを今の私はどれほど持ち合わせているだろうか。私の来し方の、また日常生活の、どこの所かでこれらをなくしてしまったのではないか」と。

 私にとって、「文化」とは、これらの失われたものを、失った場所を、探すことだと思われる。

トップページ
前の話題
次の話題