私の幼かったころ その5


 国民学校(小学校)の国旗掲揚台の左に、二宮尊徳の銅像があった。芝を背負い本を読みながら歩く、あの「勤勉」な少年像だ。右側には軍神広瀬中佐の銅像が飾られていた。はかま姿で風呂敷包みの書物をかかえた広瀬武夫は、やはり少年の姿であった。
 ボクの国民学校は、軍神広瀬中佐の出身校なのだ。
 広瀬中佐といっても、今の人には通じないだろう。日露戦争(明治37〜38年)の英雄である。中国東北部(満州)への侵攻をねらう明治政府は、南下する帝政ロシアと権益を争い、中国領土の上で戦ったのが日露戦争だ。旅順というロシアが支配する軍港の町の攻防が日露戦争のヤマとなった。
 歌人与謝野晶子は、旅順口包囲軍の中にある弟を嘆いて詠った。「君死にたまふことなかれ、旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても、何事ぞ、…」。
 そのとき、広瀬中佐は、旅順港を封鎖するため、港の入り口に古い船を沈めようとしていた。爆薬を仕掛け、小船に乗り移ったが、部下の杉野兵曹長の姿が見えない。部下を探すうち、広瀬中佐は古船もろとも海に沈んだ。…昭和一桁の人なら、「杉野はいずこ、杉野はいずや」という文部省唱歌を覚えているだろう。

 軍神広瀬中佐が戦死したのは5月27日であった。ボクの国民学校では毎月27日を中佐日と称して、格別の軍国主義教育が行われた。ボクの担任のA先生は、また格別に熱心に忠君愛国を説いた。雪の降りしきる日、中佐の銅像の前で、上半身裸で木刀を振ったりした。天皇陛下にいのちを捧げた日本男子なら、極寒の満蒙で戦う兵を思え、と教えられた。

 ボクはA先生の薫陶を受け、国学者本居宣長に心酔する右翼少年になった。そして、当時の少年がみんなそうであったように、軍人になって国のため天皇のために命を捧げようと考えるようになった。
 中学1年生、ボクは陸軍幼年学校への受験を申し込んだ。 少年が志願できるのは、少年飛行兵や少年戦車兵、少年水兵などはいずれも14歳、甲種予科練は15歳からだったが、幼年学校だけは13歳で志願できたからである。

 陸軍幼年学校の試験は8月22日に予定されていた。15日に戦争は終わった。陸軍からは何の通知もなかった。今思えば当然のことだが、そのときボクはどうしていいか分からず、虚脱状態で日を過ごしていたと思う。

陸軍幼年学校生徒(写真集
「子どもたちの昭和史」より)

 9月に入ったある日、ボクは思いあまねて国民学校の恩師、A先生を訪ねた。先生は玄関脇の座敷に立ちはだかるようにして迎えてくれた。
 「…これからどうしたらいいかと思って…」と、ボクがつぶやくように言うと、
 「軍人はもうダシカンで(だめだから)、これからは官員やなぁ」と、先生はこともなげに言った。
 ボクは先生を見上げた。涙があふれてきた。ボクは先生の家を飛び出し、声をあげて泣きながら帰った。何が悲しいのか、いや何が悔しいのか、そのときボクは分からなかったが、今ははっきりと言うことができる。
 A先生は、軍人になって国のために死ぬことこそ、天皇の赤子たる日本男子の唯一の道だと教えた。軍人になる道も、官員(公務員)になる道も、親父の後をついで大工になる道も知っていたのに、ただ一つ、軍人になる道しかないと教えたのだ。騙されたというより、それを信じて疑わなかった自分が悔しかった。

 ボクの中で戦争が終わった。真実を知らなければならない。この日からボクの新しい青春が始まった。

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