ときめいて子育てを

 

 
                                   
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 8月30日(木)晴れ
 旧園舎・元職員室に「きりがみのへや」と表示して準備はしていたが、昨日のこと、きりん組で「切り紙はいつ始まるの?」と聞かれて、何となく今日からやることにしてしまった。
 いずれ2学期に入れば、給食後の自由あそびの時間にするのだが、夏季保育の今日は朝9時から10時までとした。直前に放送すると、真っ先詰めかけてきたのは保育園の4歳児・みつばち組の子どもたちだった。「切り紙は大きい組だけだよ」と言うと、「どうして?」「めろん組でやったことある」「やりたいよ」と口々に文句をつける。ベビー出身の連中が多い。「仕方ないか。特別だよ」。

 まもなく大きい組が次々姿を現した。「どうして年中組がいるの?」と情け容赦がない。
 事務所でやったときはその場で作れなかったので、自分の部屋へ持ち帰っていたが、いい加減になったり、家に持ち帰るだけの子がいたりして、実態を把握しにくかった。今度のように半ば専用の場所ができると、やり方を教えたりできていい感じだった。
 次回は9月4日と掲示したが、きりん組の子どもたちは「明日も切り紙やって」と声をかけてきた。ほんとうに切り紙って楽しいものらしい。


    ペルー・マチュピチュの旅日誌

 第1日(8月7日)
 15時55分、デルタ航空2027便で成田を飛び立った。アトランタを経由するのは、そこにデルタ航空の本社があるからだろうか。
 ビジネスで行くツアーというので、生まれて初めてビジネスクラスの飛行機に乗った。食事や飲み物のサービスはもとより、個室風に作られた空間で、椅子が水平に伸び、のんびり寝ていかれるのには驚いた。エコノミークラスのお客さんが窮屈に膝を抱いて寝ている姿を見ると、自分は天国のように楽ではあるが、心はうずいて、二度とビジネスには乗るまい、と考えた。
 およそ24時間20分でアトランタ空港に着陸。同じ米国のデルタ航空で1時間半後に、ペルー向けに出発することが分かっているのに、入国検査、次に出国検査の厳しさにうんざりする。
 トランクに鍵をかけると抜き打ち検査の対象の場合、ハンマーで壊してでも開けると聞いて、鍵はかけなかった。指紋検査、顔写真の照合、靴を脱がせ、ベルトを外させ、ポケットのちり紙まで調べる…この国の人権感覚はどこまで堕ちてしまったのだろう。9.11のテロ以来だろうが、もとより9.11のようなテロは許せないが、自分の国が被害を受ければ大騒ぎをするくせに、アメリカ自身はベトナムでも、湾岸でも、イラクやアフガンでも、何万、何十万の市民を虐殺してきたという事実をどう反省するのだろうか。
 さて、リマ行きのデルタ航空151便は、予定通り1時間半後にリマに向けて離陸、約6時間50分で、現地時間の23時30分に到着した。入国手続きはアメリカに比べて簡潔だったが、ホテルに入ったのは1時を過ぎていた。14時間の時差は大きくて、日本なら午後3時だから眠るのは難しい。

 第2日(8月8日)
 朝はゆっくり、ビュッフェ形式の食事をとり、午前10時にマイクロバスで市内観光に出かけた。
 まず市の中心部にあるマヨール広場に行く。15世紀にスペインがインカ帝国を滅ぼし、首都をリマに定めて、最初に建設した大聖堂を見学した。
 スペインに限らず欧州諸国は強大な軍隊とキリスト教集団が一体となって植民地を広げた。軍事力に支えられて教義を広げたのはイスラムも同じだ。スペインに帰ることなくこの地に果てた支配者の墓も大聖堂にあった。良くても悪くても歴史は進んで戻らない。
 お昼は海上に張り出した地元では人気というレストランで摂った。観光案内書に「セビッチェ」というシーフード料理が紹介されていたが、いか、貝、魚と野菜を和えたような料理で、魚介類が新鮮なだけ、これがおいしかった。
 レストランの外の波の高い海では若者がサーフィンを楽しんでいた。
 午後は、国立人類学考古学歴史博物館を見学した。ペルー最大の博物館というだけあって、インカ帝国以前の、さまざまな種族の多彩な文化の特徴が系統的に展示されていて、インカ文化の基礎となった歴史がよくわかった。現地在住の日本人女性のガイドの説明も立派だった。上野の科学博物館で「インカ帝国展」を見たのが生きたと思う。
 7時30分、ホテルで夕食。長旅で疲れてはいたが、後になって思えば、この頃はまだ体調は普通だった。10時30分眠りについた。 

 第3日(8月9日)
 5時15分のモーニングコールで目覚めた。
 6時にはトランクを出し、ホテルで朝食をとって、6時45分にバスで空港に向かう。7時50分、リマ空港着。9時25分、ラン航空クスコ行きに搭乗した。
 クスコは、アンデス山脈のど真ん中、飛行機は、起伏の激しい岩ばかりの山並みを飛んでいく。海岸べりの砂漠地帯から、アンデスの山岳地帯、その東にはジャングルが広がり、それはブラジルと国境を接している。
 11時ころ、かつてインカ帝国の首都のあった標高3900mのクスコ空港に到着した。この高さでは空気は希薄なのだろうか、多少息苦しく、目眩を感じて不快だった。
 駅前でマイクロバスに乗り換えると、新しい現地ガイドが高山病の予防策を説明してくれた。腹式深呼吸をすること、急に動かないこと、動くときはゆっくりと動き、水分を多めに摂ること、の三つである。
 慣れるにはクスコは標高が高すぎるからだろう、マイクロバスはクスコ市内から山一つ超えて、「マラスの塩田」へ向かう。
 峠にお土産の売店があった。バスを降りて一休みする。ガタガタ道を揺れながら下って、標高3000mの巨大な塩田に着いた。

 塩田に流れ落ちる細い水路があり、そこを温泉のぬるま湯が流れていた。指につけてなめてみると、物凄く塩辛い。温泉が岩塩を溶かしながら湧き出ているらしい。塩田はインカ時代の前からあったというから、岩塩の埋蔵量はすごいものだ。
 塩田ははるかかなたまで続いている。田の畦はこびりついた塩で真っ白だ。夏の雨期であれば人っ子一人いないそうだが、今は乾期だから、塩田には労働者が働いていた。標高3000mの太陽がギラギラと地表を焦がし、労働者たちに襲いかかっていた。
 バスは再び悪路を激しく揺れながら走っていく。旅の疲れか、時差の不調か、それとも高山で大気が希薄なためか、この頃から体調が思わしくなくなってきた。胸を圧迫されたように息苦しく、頭全部が燃えるように熱く、「ああ、体温計を持ってくるの忘れたな」とぼんやり考えたりした。
 しゃれたレストランで昼食をとったが、食欲はほとんどなかった。ただ、ここで初めてアルパカの肉を食べた。アルパカの毛織物はペルーの特産で知られている。その肉を食べるとは知らなかった。たっぷりのオリーブオイルと香味野菜が振りかけられていて、誠に美味であったが、気分の悪いボクはほんの少し口にしただけだった。

 でも観光は容赦なく続く。バスは、インカ帝国最大の要塞の遺跡、オリャンタイタンボ遺跡へと向かっていた。
 インカ時代の宿場というか、地方庁舎でもあった遺跡で、段々畑の石段を登ると、頂上の近くにに6個の巨石を並べたナゾの建造物がある。何かを作ろうとして巨石を運び上げるのに行き詰って、途中で投げ出されたという説があるという。文字を持たなかったインカの文化だから、確たる根拠はない。その巨石群を見るために、急な坂道を延々と登った。日差しが暑く、汗があふれ、感じていた体調不良はもっとひどくなった。
 辛かったが、頑張って登りきり、巨石の前で記念撮影をした。全員はそろわなかった。

 インカの聖なる谷、ウルバンバ渓谷の山々に囲まれたロッジ風のホテル「カサ・アンディナ」に着いたときは、かなり具合が悪かった。ここは、標高が2900mあるということだった。
 7時30分、ホテルで夕食となったが、食欲があまりなかった。
 部屋に帰っても眠れず、胸が苦しくて辛かった。

 第4日(8月10日)
 朝食を済ませ8時にバスで出発、オリャンタイタンボ駅から高原列車でマチュピチュ村へ向かう。そこは標高2000mなので、ひたすら渓谷沿いに下りていく。 
 村は唯一のマチュピチュへの出入り口なので観光客で賑わっていた。マチュピチュ遺跡は南米アンデスの山の中、標高2400mの断崖の上にあって、山裾からはその姿が見えないことから空中都市とも呼ばれている。「マチュピチュ」とは「老いた峰」を意味するとかで、村から断崖に拓かれたつづら折の道をバスで上がる。何十台ものバスが狭い道をかなりのスピードでピストン輸送していた。

 11時30分頃、マチュピチュに着いた。正門の隣にあるサンチュアリ・ロッジが今夜の宿だ。観光客を乗せて次々バスが到着するので、正門前は人があふれている。午前中に見学して午後は下山するツアーが多いようだ。
 われわれはとりあえずロッジのレストランでゆっくり昼食をとった。
 午後、ガイドの案内で、遺跡を一回り見学した。入場にはパスポートと氏名・国籍等を打ち込んだチケットが必要だ。現地通貨で128Sとあるから、およそ4000円だ。
 入場して、“穀物倉庫”のそばを左折して急な登り坂を“見晴らし小屋”まで、登った。直射日光が強く、汗が噴出す。3回も休んで、やっとついた。すごい。マチュピチュの全景が眼下にあった。
 そこから遺跡へ下りて、コースを一回り案内してもらった。石段や坂道を登ったり下りたり、4時間あまり歩き続けた。鉄を持たなかったインカで、この正確な石組み技術は驚嘆に値する。

 第5日(8月11日)
 午前7時、隣接する高峰ワイナビチュへ登る仲間が出発した。事前に申し込んだ200人だけが登山許可をもらえるシステムで、ボクは無理と思って申し込まなかった。登った仲間からもらった写真だ。
 上のたくさんの写真と正反対から撮った、これが耕して天に至った段々畑のマチュピチュの全景である。
 ロッジに残った人は宿でゆっくりしていたが、ボクは昨日歩いた遺跡へ一人で出かけた。日差しが強く、暑かったが、急ぎもせずにのんびり歩いた。

 午後はツアーのみんなで“インカの橋”まで探検に向かった。
 見張り小屋の高台まで登って、そこから絶壁・断崖のインカ道を進んだ。道幅は1メートルから1.2メートルくらい。もちろん柵やガードレールはない。躓いて転んだら大変だから、目の悪いボクは足元だけを見て緊張して歩いた。
 途中に記帳所があり、氏名、国籍、性別、通過時刻を記入する。帰りに帰着時刻とサインをすることになっていた。見ると、20代から50代までの人が多く、数枚めくってみたが、81歳が一人いただけだった。まあ年寄りの行くコースではないのだろう。そこからまた狭いインカ道をたどると、行き止まりになっていた。そこから先は危険なようだ。
 はるかにインカ橋が見えたが、道が数メートル断崖に切れた所に太い丸太数本の橋がかかっていた。この道をインカの時代は飛脚が全力で走ったらしい。中央政府の指示や地方の報告を伝えるために。…残念なことにカメラの電池が切れた。行き止まりで添乗員の撮影したのが右の写真だ。

 午後遅く、バスでマチュピチュを下りた。そして豪華高原列車でクスコに向かった。列車はすべて食堂車で、車中は飲み放題、豪華なコース料理で、若手の人たちは盛り上がった。
 夜更けてクスコのホテルに着く。標高4000mの街、寝苦しく、呼吸がやや困難、激しく頭痛もして辛い一夜だった。 

 6日目(8月12日)
 午前中、クスコの町を見学した。
 午後、ラン航空2020便でクスコから、リマへ飛ぶ。1時間半でリマに到着、直ちにバスに乗り換えて、パンアメリカン・ハイウェイを南下して、パラカスの豪華ホテルに宿泊。

 7日目(8月13日)
 朝8時、バスでピスコ空港に向かい、セスナ機に分乗して“ナスカの地上絵”観光に出発。
 20分間、砂漠の山岳地帯を飛んだ後、地上絵を次々見せてくれた。いつ、誰が、何のために描いたか、なぞに包まれた巨大な地上絵を、セスナ機は翼を傾けて見やすくする。自分が傾くのでなく、地上絵の大地が壁のように立ち上がって、よく見ることができた。

 8日目(8月14日)
 動物の楽園バジェスタス島ボートクルーズが予定されていたが、悪天候で船出が禁止となり残念。
 午後、リマへ戻り、最後の晩餐を和食食堂で摂った。赤貝とねぎのぬたがおいしくて、夢中に食べていると、ズルズルと大量の鼻血が出てきた。食事中なので、そうっと対処した。疲れが限界だったかもしれない。
 9日目、10日目、長い空の旅は無事に終わった。成田から重いトランクを持って帰ってきた。


 8月17日(金)晴れ
 マチュピチュなどを巡るペリーの旅を無事終えて、昨夜帰国した。
 出発前、悪い予感がしたが、それは飛行機事故ではなく、高山病による不調の兆候だったのかもしれない。スイスのユングフラウヨッホでも平気だったし、自分が高山に弱いと思ったことはない。
 疲れがたまっていたのかもしれない。歩けば息が弾み、胸が苦しく、食欲も衰えた。一人部屋の一人参加で、ツアーの同行者はいても相談相手はいない。初めての心細い辛いことの多い旅だった。行きたくて行ったマチュピチュだから、踏ん張って歩いた。限りない石段や坂道を

登ったり下りたり、負けずに歩いた。日本人ガイドの説明もよく分かり、感動の連続だった。終日歩き、遺跡に隣接するサンクチュアリロッジに一泊して、翌日は断崖絶壁にそったインカ道を行き止まりのインカ橋まで歩いた。行ってよかった。
 この距離を旅するのは多分最後だろう。生まれて初めてのビジネスクラスの飛行機、初めて横になって眠る贅沢を味わった。いい夏休みだった。さあこれから「その」へ行って、ヤギのメリーと、あかちゃんたちに会うのが楽しみだ。
 気が向いたら、旅の様子を後日お知らせします。


 7月30日(月)晴れ
 今年最後のクッキング保育。猛暑のせいもあろうが、おじさんの畑のきゅうりは根元からしおれてきて、花が咲いても実は育たなくなった。ナスだけが重たい実をつけていた。
 「きんぎょ組でやってみる?」声をかけると、担任が「やりたい!」と乗ってきた。
 1歳児は初めてだ。が、今年度2〜4歳児を相手に9回やったときと同じに、収穫から参加させたかった。
 早生まれの幼い子はプールに残して、月齢の高い子だけ着替えて畑へ行くことにした。
 2階の保育室から階段を下りるのが上手になっている。靴を履くのも自分でできる子が多い。できない子も自分で靴箱から出して差し出す。全員を待って「さあ、おじさんの畑へ行くよ」…あやのちゃんたちは分かっているらしく、ボクより前を畑に向かって行く。
 畑でナスをもいで一つずつ渡す。抱きかかえる笑顔が素敵だ。先生に言われて順番に前に来たものの、ナスを受け取ろうとしない子もいる。無言だから理由は分からない。多分、ナスということも野菜ということも、持って大丈夫ということも分からないのだろう。「いいよ。今度持ってね」。
 ナスを持って階段をあがる子の意気揚々たる表情がいい。

 部屋に戻っていよいよ調理だ。2歳児は自分たちで洗わせたが、今回はボクが洗った。テーブルを順番に回って皮をむく。黒いナスが真っ白に変身していくのを、子どもたちはじっと見つめている。焼いても皮は口に残り、食べにくいだろうと、全部剥くことにした。
 それから、またテーブルを回りながら、ナスを刻んだ。食べやすいように小さめに切る。
 テーブルを順番に回ると言っても、見たい一心で立ってそばに来る子がいる。これは2歳以上ではほとんどないことだ。包丁を使うから危ないよ、手はお膝、と言えば、言いつけを守ることができる。1歳児は気持ちが先立ってそばに来てしまうが、動きが遅くゆったりしているから、包丁を使っていても心配はあまりなかった。
 隣のめだか組(0歳児)から先生と一緒に来た赤ちゃんもしっかり覗き込んでいた。(後になって焼きナスをおいしそうに食べた)。
 切ったナスをホットプレートで焼く。油は少なめにした。焼けたところへ醤油をジーッとかけて出来上がり。
 「熱いからフーフーして」と言うのに、かまわず手づかみで食べる。すぐに「お代わり」と声もなく皿を差し出す。みんなビックリするほど食べた。ナス入りカレーのときは食べなかった子もお代わりを3回もした。
 慌てて残りのナスを刻んで2度目を焼く。子どもたちは麦茶を飲み、手遊びをして待ち、2度目もお代わりで食べ切ってしまった。
 1歳児でもクッキング保育は成功すると、僕にとっても貴重な体験となった。


 7月28日(土)晴れ
 毎日メリーのお相手をしているうち、だんだん慣れてきた。暑いので熱中症にならないよう、小屋の戸をあけて、小さい遊び場と自由に行き来できるようにしている。
 小屋の中ではほとんど排泄しないで、小屋の外でする。なかなかお利口さんだ。
 ボクの顔を見分けてくれる感じのした3日目に、無理やり紐をつけて、園庭に連れ出すと、子どもたちがワッと寄ってきたが、それほど嫌がらない。「優しくなでてね。いい子、いい子だよ」と言うと、次々になでてくれる。「最初は嫌がっても、なでてやっているうちに人を好きになります」と牧場からつれてきたおじさんに聞いていた。
 号令をかけて走ると、飛び跳ねるようにして猛スピードで走る。でも、じきに小屋の方向に走って、中に飛び込んでしまった。
 園庭散歩の3回目の今日は、こちらの行きたいところへ、どこでもついて来た。ちょうど8月のキャンプ初心者セミナーの説明会があり、その写真を撮るために2階のホールに向かうと、階段をコトコト上がってくる。高山の岩陰に暮らすヤギは昇ることには強い。降りるのも平気だった。
 干草が好きなだけあって、枯れた落ち葉を拾って食べる。今度は緑の草のおいしさをしる特訓をしなければ…。
 先日きりん組がヤギ当番で小屋の掃除をしてくれた。年長組の大事な活動になるだろう。


 7月22日(日)曇り
 夏まつりが無事に終わった。そののもつエネルギーは分かっているので、やれば成功するのは分かっている。天候は多少心配したが、それもそのの強運を信じているので、中止とか延期とかは考えもしなかった。
 分かっていても、お父さんやお母さん、それに職員たちの頑張りを見ていると、胸が熱くなる。そのの組織はほんとうに素晴らしい。
 今年は保育園と保育生協が力を合わせてやった。模擬店の収益もあるので、厳密には保育園としては参加できない。そこで保育園の保護者会「つ

 ばめの会」から実行委員を選出してもらう形で一緒にやった。
 保育生協は地域班ごとに模擬店などの部門を担当したが、保育園保護者会はクラスごとに部門を受け持ってもらった。
 一緒にやるといっても組織が違うだけに難しさはあったが、これと言ったトラブルもなく準備し、実行することができて、ほんとうによかった。運動会などの大きな行事も、この経験を生かして早めに準備していきたい。
 もうひとつよかったのは、保育園の若々しいエネルギーを活かしながら、保育生協の職員も協力して、オープニングに荒馬踊りで勇壮な幕開けができたことだ。
 旧園舎の取り壊しと保育園の2階建ての効果で園庭が広くなったので、全園児340人の輪のなかに、荒馬踊りのスペースを確保できたのがよかった。荒馬踊りは保育園の若手の先生が荒馬座の講習を受けて、みんなにも教えてくれた。お囃子は保育生協の渡辺主任らが続けていた笛・太鼓のグループに保育園の先生も加わって編成された。
 問題は稽古の時間合わせだ。保育園は早番、遅番のシフトがあって勤務時間がバラバラなので、保育生協の先生と合わせるのが難しい。そこを努力して本番に備えてきた。子どもたちの輪の外からお父さん・お母さんたち家族にも見てもらった。踊り手の勇壮な踊りとお囃子の熱演に、大きな拍手が鳴り響いた。
 年長組の子どもたちは、踊り手の「ラッセラ、ラッセラ」のかけ声に「ラッセラッセラッセラ」と応じて一体となった。それがその後の「かっぱのまつり」の踊りにつながった。
 まつりの模擬店はどこも盛況で、あそびの広場や卒園生の交流室も楽しさを豊かにしてくれた。どこの部門でもお父さんたちの活躍が力になった。
 子どものそのの素晴らしさは、新しい保育園にも吸収され、花開くだろうと安心できた。
 大勢のひとが夏まつりの後片付けを手伝ってくれた。それも「その」らしさのひとつでもある。最後に二つの園の職員が勢ぞろいして締めくくったのは10時を過ぎていた。どなたもお疲れさまでした。


 7月8日(日)晴れ
 6日の夕方は小雨がパラついた。心配したが、午後からの夕食作りや当番活動、夜のキャンプファイヤーなど、計画通り全部やれた。
 子どもたちが輪になって「もぐらのまつり」などを歌って踊り、「遠き山に日は落ちて…」と美しく歌っているとき、火の神の使者が現れた。
 人間は火を使えるようになって、肉や魚を焼いて食べられるようになったばかりか、石を溶かして銅や鉄を作り、豊かな生活ができるようになったことを話して、火の神の使者は「火を大事にする」ことを諭した。それから天に向かって火の合図を送ると、暗闇の空から火の矢が飛んできて、一瞬のうちに木のやぐらが燃え上がった。ウワーッと歓声が上がる。
 それからカッパが訪ねてきたり、暗闇の探検、打ち上げ花火やナイアガラ花火を楽しんだ。
 保育生協の先生はもとより、保育園の職員も保育のシフトに入っている先生以外は全員参加だ。Babyの先生も園長・主任と新任の先生たちが手伝いに来てくれた。初めて「その」の合宿に参加した新任の先生は、その本格的な取組み、演出に驚愕していた。なかなかここまで出来る園はないだろう。

 合宿明けの7日土曜日の朝9時から、理事やボランティアのお父さんたちで夏まつりのやぐら建てが行われた。やる気で集まった人たちだから仕事が速い。ボクは途中で保育制度の学習会準備に出かけさせてもらった。

 「これからの保育制度はどうなる」と題して、駅前ココネの市民交流センターで村山祐一先生の講演を予定していた。消費税値上げと一体の「子ども・子育て新システム」は廃案になったが、それに代わる「認定こども園制度の充実とはどんな内容か」という疑問に答えてくれるはずだった。ふじみ野市内の民間保育園が共同で準備した学習会だった。
 ところが講師の乗った電車が信号事故のため動かず、会場到着が何時間遅れか検討がつかないという非常事態となった。鳩首協議の末、満席の各園の保育士たち、保護者のみなさんに、麦っ子保育園の理事長、風の里保育園の園長、それにボクの3人が、急きょこの学習会を企画した意図や保育新システムの危険な内容などについて説明して、講演会中止のお詫びとした。

 8日、今日はひよこ組担任の谷合ひとみ先生の結婚式が東京・ロイヤルパークホテルで行われ、石原園長、若手の同僚保育士5名と一緒に参列した。参列者85人という盛大な披露宴で、主賓挨拶を命じられたが、少し上がってうまくいかなかった。ひとみ先生、ごめんね。優しそうな男性でとても幸せそううだった。(写真は式を終えてチャペルを出る満面の笑みを浮かべたひとみ先生)


 7月4日(水)晴れ
 先日ひよこ組と一緒にきゅうり3本を収穫して、給食室の冷蔵庫に冷やしておいた。今日はすずめ組と大きくなった3本を収穫した。こっそり八百屋から買ってきた6本をポケットに忍ばせ、ハサミで収穫するふりをして、子どもたちに渡す。
 2クラスの2歳児が一緒に集まって、クッキング保育をする計画だった。朝、すずめ組の先生が「ごめんなさい。きゅうりを採って、〇〇君が〇〇君と半分こして食べちゃいました」と言う。
 また?と、ボクは笑った。この前、すずめ組でクッキング保育をしたあと、〇〇君が畑や収穫に興味を持ったのか、きゅうりやナスを枝ごともいでしまった。初めての体験で、興味の対象が広がったのは嬉しいが、今年はもう「おじさんの畑」は開店休業だなと覚悟していた。
 でも、その後は忘れたらしく、きゅうりは育ってくれた。「今日はおじさんとおいしいきゅうりを食べるよ」と先生から話を聞いて、畑を思い出したのならまあいいか。

 すずめ組の部屋には、ひよこ組の机も運び込んだ。机の色が違うが、すずめ組の子はひよこ組の机に座る子が多い。ひよこ組の子が来て、空いている席に座る。2クラスが入り混じって、これもいいかなと思う。
 12本のきゅうりを薄く刻むのは一仕事だ。ましてボクは主婦のようにトントントンとは切れない。事務の井出さんに応援を頼んで傍らで刻んでもらった。ボクは机を回って目の前で刻む。呪文のようにおじさんのきゅうりがどんなにおいしいか、囁きかけながら…。
 大きなボールに入れた新鮮なきゅうりの香りをみんなに嗅いでもらう。それから魔法の塩を振って揉みこむ。それから魔法の三杯酢を、魔法を唱えながら振り掛ける。三杯酢は給食よりずっと甘く作ってある。穀物酢3、醤油1、砂糖3の割合だ。
 食べた、食べた。25人のうち、すずめ組の1人だけ口にしなかったが、後は全員お代わりした。10回くらいお代わりした子も10人以上はいたと思う。野菜きらい、きゅうり嫌いという子も食べてくれて、先生たちも喜んでいた。


 7月1日(日)曇りのち雨
 数日前の新聞広告を見てその気になり、東京都交響楽団を聴きに、上野の文化会館へ行った。今頃までチケット売りをして不入りなのかと思ったが意外に満席に近かった。シニア割引があったのは都の援助があるからか。ヴァイオリンの渡辺玲子も、チェロの長谷川陽子も名前は聞いていたが、聴くのは初めてだった。ブラームスのヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲だった。
 お正月にウイーンフィールのニューイヤーコンサートでチェロの独奏を聴き、チェロってこんなに美しい音色を出す楽器だったかと感動したが、今度はチェロというのはこんなに荒々しい、激しい音を出すのかと恐ろしかった。
 ヴァイオリンの演奏も切れ味の鋭い、巧緻な演奏に感動した。お二人はプログラムの写真を見るかぎり穏やかな美しい女性だが、演奏の合間というか、自分の出番でないときの表情や落ち着かない仕草が異常なまでの緊張感を感じさせた。音楽に集中しているのか、演奏以外の自分の姿には頓着がない、と見えた。これがプロというもんだ。拍手は大劇場を揺るがした。
 最後はベートーヴェンの交響曲第七番。交響曲ではこの曲が一番好きだ。ステレオでレコードを聴いた時代には毎週日曜日の朝はこれをかけた。第二楽章はオレの葬式のとき流してくれと前から言ってきた。
 激しい第四楽章を聴いていると、ずいぶん長い人生だったな、いろんな人に出会い、世話になり、分かれてきた。もうじき何もかも終わりになる、と思えて涙ぐんだ。

 話は変わるが、29日のプール開き。これまでと違って、まず0歳児と1歳児の赤ちゃんグループがウッドデッキでオープニングをした。高野園長のギターで「かっぱのまつり」を踊る。真似っこしてからだでリズムをとる姿が無性にかわいい。水遊びになると、大きなプールよりたらいのほうが人気があっておもしろい。
 大きい組が踊った屋上のプール開きのあとは小さい組がプールあそびに興じた。


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